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(コラム)現在お笑い入門〜フジテレビ編〜

果たして今現在、バラエティ番組といえばフジテレビというイメージはどれほど共有できるものなのでしょうか。
かつてフジテレビが持っていたそのイメージはどの様にして作られていったのかを起点に、現在のお笑いに繋がるかもしれない歴史を振り返っていきます。

フジテレビのスローガンが「母と子のフジテレビ」から「楽しくなければテレビじゃない」へと変化したのは81年。
80年に始まる『THE MANZAI』の成功で漫才ブームが起きていた頃、当時日本のテレビのバラエティ番組といえば、いかりや長介('31)率いるザ・ドリフターズが出演する『8時だョ!全員集合』や『ドリフ大爆笑』、萩本欽一('41)が出演する『欽ドン!』シリーズや『欽ちゃんのどこまでやるの!』『欽ちゃんの週刊欽曜日』といった番組でした。
日本のお笑いの王道をザ・ドリフターズ萩本欽一が担っていた時代です。

その時代に「楽しくなければテレビじゃない」を体現する番組としてフジテレビが打ち出したのが、ビートたけし('47)や明石家さんま('55)らが中心となって活躍する『オレたちひょうきん族』とタモリ('45)が司会を務める『森田一義アワー 笑っていいとも!』の二番組で、それぞれ81年と82年に放送が開始されます。
特に『オレたちひょうきん族』は『8時だョ!全員集合』と同時間帯に放送され、84年に年間平均視聴率を上回ると、翌85年には『8時だョ!全員集合』を番組終了に追いやってしまいます(後に『8時だョ!全員集合』の後番組としてザ・ドリフターズのメンバー加藤茶('43)と志村けん('50)が始めた『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』は再び『オレたちひょうきん族』を視聴率で上回り、逆に『オレたちひょうきん族』を番組終了に追いやります)。
更にもう一つの王道として君臨していた萩本欽一も85年に休養宣言。
こちらも『オレたちひょうきん族』の人気がその一因と言われています。

漫才ブームを経て、「楽しくなければテレビじゃない」のスローガンを体現するフジテレビの体制の変化と共に、時代の寵児となったお笑い芸人がビートたけしです。
81年に始まる『ビートたけしオールナイトニッポン』と『オレたちひょうきん族』を始めとして、フジテレビ以外でも83年『スーパーJOCKEY』や85年『天才・たけしの元気が出るテレビ‼︎』、86年『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』など人気番組が次々と立ち上がります。
しかし、人気絶頂のビートたけしに対する写真週刊誌の執拗な取材や、当時の不倫相手に対する過度な取材が傷害にまでつながったことに対する抗議として86年末にフライデー襲撃事件が起きてしまいます。
この事件を機にビートたけしは活動休止するのですが、翌87年の夏に放送された27時間テレビの原点『FNSスーパースペシャル 1億人のテレビ夢列島』でテレビ復帰を果たします。
この番組で司会を務めたのがタモリ明石家さんまの二人で、この共演がきっかけとなり『タモリ・たけし・さんま BIG3 世紀のゴルフマッチ』に繋がり、ここからタモリビートたけし明石家さんまがお笑いのBIG3と呼ばれるようになります。

一方、『オレたちひょうきん族』や『森田一義アワー 笑っていいとも!』が放送開始されたこの時期、重要な二組のコンビに転機が訪れます。
一つは『お笑いスター誕生』でグランプリを獲得した石橋貴明('61)と木梨憲武('62)のコンビ、とんねるず
もう一つは漫才ブームに沸く時代に新しいスターを生み出そうと創設された吉本興業の養成所NSCに第一期生として入学する浜田雅功('63)と松本人志('63)のコンビ、ダウンタウン
共に82年のことでした。
また、この82年から93年までの期間にフジテレビが年間視聴率(ゴールデン・プライム・全日)三冠王を獲得していきます。

「楽しくなければテレビじゃない」のスローガンはフジテレビの深夜番組制作にも影響を与えます。
その中心番組といえるのがとんねるずも出演した『オールナイトフジ』です。
83年に始まったこの深夜番組は女子大生ブームの火付け役となり、更にターゲットとなる年齢層を下げた85年の『夕やけニャンニャン』にも繋がっていきます。
この時期にこの二番組への出演や『とんねるずオールナイトニッポン』も放送開始され、とんねるずは若者を中心に絶大な人気を博します。
更に87年には『ねるとん紅鯨団』が深夜放送ながらも高視聴率を稼ぎ、翌88年には『とんねるずのみなさんのおかげです。』のゴールデンタイムでのレギュラー放送が開始され、その人気を確固たるものにします。

一方で、フジテレビの深夜番組制作に影響を与えたのはスローガンだけではありませんでした。
当時、自社製品のブランド名をナショナルからパナソニックに移行していた時期の松下電器産業がそのブランド名を浸透させるため、パナソニック一社提供で放送していた深夜番組がありました。
それが内村光良('64)と南原清隆('65)のコンビ、ウッチャンナンチャンダウンタウンらが共演した88年の『夢で逢えたら』です。
この『夢で逢えたら』でウッチャンナンチャンダウンタウンの人気に火がつき、90年にとんねるずがドラマ出演のために放送休止していた『みなさんのおかげです。』の代打をウッチャンナンチャンが務めることになります。
この『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』が好評となり、代打放送の後も『ウッチャンナンチャンやるならやらねば!』へと名前を変えて番組が継続していきます。
一方のダウンタウンも91年に『ダウンタウンのごっつええ感じ』のレギュラー放送が始まり、この二組がとんねるずに続く人気コンビになっていきました。
夢で逢えたら』以降も、パナソニック枠では『夢がMORIMORI』や『めちゃ×2モテたいッ!』『LOVE LOVE あいしてる』らが放送され、後に『SMAP×SMAP』や『めちゃ×2イケてるッ!』『堂本兄弟』へと繋がっていきます。

更に92年から放送された深夜番組『ボキャブラ天国』は徐々に若手芸人がネタを競い合う場に変化していき、90年代中頃には出演者の中から爆笑問題ネプチューンくりぃむしちゅー(当時は海砂利水魚)、ロンドンブーツ1号2号らがブレイクを果たします。
また、前述したフジテレビが年間視聴率三冠王を獲得していた93年を過ぎると、バラエティの中心の場がフジテレビ以外にも現れてきます。
その時代を象徴する番組が92年から日本テレビで放送された『進め!電波少年』です。
この番組の特徴は芸人に無理難題の企画に挑戦させる点にありましたが、中でも96年から始まった有吉弘行('74)が在籍した猿岩石のヒッチハイク企画は、関連の書籍やCDまで大ヒットするほど人気を博しました。

ただ、フジテレビの年間視聴率三冠王の連続記録が途絶えたとはいえ、人気番組は生まれ続けていました。
96年には『夢がMORIMORI』とテレビ東京の『愛ラブSMAP』が統合する形で、中居正広('72)がリーダーを務めるSMAPのバラエティ番組『SMAP×SMAP』が放送開始されます。
同メンバーの木村拓哉('72)が主演を務めた『ロングバケーション』と同日スタートということも重なりすぐさま人気番組になっていきます。
また同年には岡村隆史('70)と矢部浩之('71)のコンビ、ナインティナインを中心に据えた『めちゃ×2モテたいッ!』がゴールデン進出に伴い『めちゃ×2イケてるッ!』としてリニューアルされ放送開始されます。

90年代後半になるとNHKで99年に放送が始まった『爆笑オンエアバトル』のヒットがきっかけとなり、00年代には03年日本テレビエンタの神様』や04年朝日放送笑いの金メダル』などネタ見せ番組の人気が高まります。
テレビでネタを披露する場が増える一方で、同時期には劇場の舞台にこだわった芸人の活動も目立ち、日村勇紀('72)と設楽統('73)のコンビ、バナナマン小林賢太郎('73)と片桐仁('73)のコンビ、ラーメンズらが活躍していた東京コントシーンが成熟していた時期でもありました。
上記の二組に加え、小木博明('71)と矢作兼('71)のコンビ、おぎやはぎを加えた三組のコントユニット「君の席」のライブが01年から02年にかけて行われています。

しかし、この時期のお笑いシーンに一番のインパクトがあったのは島田紳助('56)とダウンタウン松本人志が中心となって立ち上げた朝日放送M-1グランプリ』でした。
優勝賞金1000万円だけでなく、この大会で結果を残すことによってブレイクする芸人の多さからも、若手〜中堅芸人が人気芸人を目指す上での登竜門として存在していました。
ただし、一旦区切りが付いた10年大会までの歴代優勝者の特徴として中川家中川礼二('72)、フットボールアワー後藤輝基('74)、ブラックマヨネーズ吉田敬('73)、小杉竜一('73)、サンドウィッチマン富澤たけし('74)、伊達みきお('74)、笑い飯西田幸治('74)、哲夫('74)と団塊ジュニア世代の比率が高く、他の優勝者も団塊ジュニア世代付近生まれが多く、回を重ねるごとにある程度M-1で受ける型が固まり、若手芸人よりも中堅芸人に有利な大会になっていったと言えるかもしれません。

この時代にフジテレビのバラエティ番組で人気があったのが西野亮廣(’80)と梶原雄太('80)のコンビ、キングコング秋山竜次('78)と山本博('78)と馬場裕之('79)のトリオ、ロバートらが出演し、01年から深夜番組として始まり、05年にゴールデンタイムに進出した『はねるのトびら』です。
この『はねるのトびら』の前身番組である『新しい波8』はビートたけし明石家さんまダウンタウンナインティナインと年齢差8歳ごとに
時代を代表する芸人が現れていることから新たなスターの出現を期待した番組で、80年代以降に現れたフジテレビのバラエティ番組の流れを汲むものでした。

しかし、10年代に入り12年に『はねるのトびら』が番組終了すると、14年には『森田一義アワー 笑っていいとも!』、16年には『SMAP×SMAP』、18年には『とんねるずのみなさんのおかげでした』と『めちゃ×2イケてるッ!』が相次いで番組終了し、かつてお笑いの花形であったはずのフジテレビのバラエティ番組は跡形もなく消え去ってしまいました。

そして、現在20年代は80年以降に現れたフジテレビのバラエティの歴史とはほとんど分断された時代と言わざるをえないのが現状です。
あれ程あったフジテレビのバラエティ番組がほとんど消えることで続いてきた現在のお笑いシーン。
消え去ったものとはなんだったのかを考えることが、現在のお笑いに何が求められているのかを理解できるヒントになるかもしれません。